ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

【本感想】むしろ、考える家事 家事と社会参加を考える

こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

最近、スーパーのおすすめ商品が気になるようになりました。

私の家のすぐ近くにある中型スーパーは、通常の売り場の他に、その時々のおすすめ商品のコーナーがあります。

流行りもの・・・というわけではなく、そのスーパーが独自で掘り出してきて、売っているもの。

 

突然「ソイ生活」とか言い出してソイラテ売ったり、かと思ったらどこかの地方で絶大な人気のラー油を推し、ふっくらした大豆を売り、ラムネを売り・・・と、何が置いてあるか、行ってみるまで予想がつきません。

今までは、そのコーナーにはあまり関心がありませんでしたが、最近ちょっと気になるようになってきました。

 

そして買っちゃいました。

世にも美味しいブラウニーを。

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消費者100%の今の自分に気づく

まんまと企業の策略に乗っちゃったな。

そんなことを思いながら帰宅して、ブラウニーを食べました。

たしかに濃厚でいて、サクサクというかホロホロというか、ブラウニーって自分で作るとパサパサしがちなんだけど、これは全然違っておいしいな。

 

いい買い物をした、と思う反面、さっきの「企業の策略」が引っ掛かりました。

仕事をしている時って、悪い書き方をすれば、誰かを「策略に乗せる」っていう面があると思うのです。

メーカーだったら消費者、接客業ならお客様、私(人材系)だったら求職者、その他の業種でも取引先だったり自社の同僚だったり・・・を、自分の提案に乗らせる。

でも、今の私はそういう、作戦を練って「誰かを動かす」とか、「策略に乗せる」ということはする機会がない。

(あ、アフィリエイトとかは、これに当てはまるな・・・でも本気でやっていないので今回はスルーで)

 

今の生活は、人を動かす何かを作ることはなく、消費者100%で、誰かの策略に乗るものしかないんだよな・・・

 

そう考えると、仕事ってどんな仕事でも「人を動かして社会を作る」ことがあるんだよなぁ、なんて改めて思ったのです。

 

家事や育児だけしている今も、違う形で社会を担っているはずだとは思うのだけれども、じゃあ何を?と聞かれると、いまいちピンとこない。

ああ、これが「社会から孤立しているって感じる」ってやつなのかもしれない。

 

前置きがながくなりましたが、そんなことを考えている時に、この本に出会いました。

 

 

どんな内容なの?

公式サイトによると、こんな内容です。

 

家事”に”革命ではなく、家事”で”革命を起こそう!

「家事はもくもくと手を動かし続け、「時短」や「効率良く」を考えながらやるもの、さっさと済ませて次の時間へ行きたい。」そういうふうに家事時間をマイナスなものとしてとらえると、その時間がもったいないではないか! そう気づいた山崎ナオコーラさんは、家事時間をむしろプラスなものと捉えて、楽しい考えごとに使うことに。料理、掃除、洗濯、子育て……日常の家事の時間に考えたことを綴る、新しい視点のエッセイ。

 

 

家事は、無駄?

山崎さんは、家事について「どんなに努力しても、ゼロ秒にすることはできない」ということに気づきます。

家事時間をネガティブに定義して、感じないようにしたり、短くするようにしたり努めるのではなく、ポジティブに捉えて、楽しい考えごとに使い、仕事をしている人以上に、家事で成長しようとしたっていいのではないか。 

思考停止するから、無駄な時間になるのではないか?考えごとに使えば、多少時間がかかったとしても成長できるのではないか?という発想は面白いですね。

 

また、「社会参加」についてこう書いています。

それなのに、社会参加は仕事でしかできないと思い込んで、「人間は全員、仕事だけをしたがっている」「家事は押し付けられた人が行う業務だ」と、つい決めてかかってしまう。だが、現代や未来において、仕事の意味は変化している。給料をもらうことを仕事とする定義は一般的ではなくなりつつある。<中略>主婦や主夫だって社会人だ。介護者や育児者やボランティアや学生やひきこもりの人や休職者や後期高齢者だって社会人なのだ。

先ほど私が疑問に思っていた、「私は社会参加しているのか?」ということに対してのアンサーがここにありました。

そうだ、どんな形であれ、社会参加していることには変わりないだろう。

 

そして、家事についてなぜ価値が低くなってしまっているのか?と悔しさをにじませています。

家事の担い手は、「本当は仕事をしたいのに、パートナーから押し付けられて、仕方なく家事をやっている人」だと世間から思われ、やがて自分でもそう思うようになってしまった。悔しい。やりたくてやっている、と言いたいし、思いたい。 

 

 

心が潤う家事

前までに書いたきっかけで、家事を充実させ、楽しむようにした山崎さん。

 

たとえば、「いそがしい現代人に日光浴をさせてやるために、洗濯という家事があるんじゃないかな」なんて思いながら、庭に出る。

「料理はパズルだ」と、あれこれ献立を組み立て、工程を組み立てるのを楽しむ。

レシピをまるで本を読むように楽しんだり、暗記したりする。

「庭仕事」「粉仕事(クッキーやもんじゃ焼きを作る)」をして、その延長線上で「梅仕事(梅干しを作る)」をする。

子どもと一緒に家事をして、かかる時間と手間にやきもきしながらも、その意義を感じる。

 

・・・たしかに、家事を通して成長しているし、豊かな人生になっていると思う。

 

 

「当たり前」に疑問を持つこと

ただ、正直なところ、これを読んでも私の中では、まだ「家事=人生を豊かに」ということに100%納得しているわけではありません。

 

家事は面倒くさいし、できるだけ手間を省きたいし、そうやって捻出した時間でやりたいことがある。

でも、世の中には、全然違う視点で、「むしろ、考える家事」を編み出している人もいるんだな・・・ということには改めて気づけたのは、よかったと思う。

たしかに、どんなに努力してもゼロ秒にはならないんだから。

 

冒頭に書いたような「社会参加」についても、まだちゃんと答えはでていません。

だけど、行き詰まったら「むしろ」「逆に」と発想の転換をしてみるのも、1つの手だな・・・ということには気づけました。

 

家事の存在に悩んでいる人、逆に山崎さんのように「家事が楽しいのになぜ世間の評価が低いのか?」と疑問を持っている人は、ぜひ読んでみてください。

 

 

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