ドクダミ自由帳

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学校教育に多くを求めすぎていないだろうか?

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こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

「学校」についてって、定期的に話題に上がってきますね。

 

「学校でこういうことを教えてほしかった」という学校教育の不足を指摘する人や、画一的な教育をしているのが問題だと言う人、ブラック校則がどうのこうのとか、学校のこういうところが嫌だという話、そもそも学校のあり方とは?などなど。

最近では、不登校YouTuberの発言や、親が学校に行かせていないんじゃないか?とか、そういう話もありますね。

 

このブログでは、今まで学校教育について思うことを何回か書いてきました。

 

「学校では教えてくれなかった」っていう人への反論とか。

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やっぱり学校での勉強って大事だなと思った話とか。www.dokudamiyoshiko.com

 

今回は、特に「学校では画一的な教育をしているのが問題であって創造性がどうのこうの」というカリキュラムや体制についてのご意見に対して、「そもそも学校とは何なのか?」についてを書いていこうと思います。

 

ちなみに私は、教員免許は一応取得しましたが、採用試験も受けずに就職しました。

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今回書きたいことの一部は、もう既にこのブログでも書いていたな。

 

この話は、現場で頑張る先生がどうのこうの、という話ではありません。

あくまでも、「学校」の立ち位置や国や地方公共団体が公立校を運営する意味みたいなお話です。

 

 

学校教育とはナショナリズムだ

教職の授業の中で印象に残っていることの1つに、「教育とはナショナリズムだ」という話があります。

私は社会科だったのですが、ある講義の初回がその話でした。

冒頭に、各国の作る世界地図を見ました。

 

  • 日本が中心になっている地図
  • 南が上、北が下になっている地図
  • 北米が中心で、日本が左端にある地図
  • 日本が描かれていない地図

 

「我々は日本中心のものを世界地図だと認識しているが、それは学校教育の成果なのだ」

「日本では竹島、韓国では独島(その他多数の例)」

「教育とは、その国にとって都合の良い歴史をインプットし、その国の理想とする人民を作るためのものだ」

「教育とは、すなわちナショナリズムなのだ。それを忘れてはいけない」

・・・と、そんな内容でした。

 

私はその講義を受けてガーンと頭を殴られたような衝撃を覚えました。

学校とは、グローバルなスタンダードを学び、「正しい歴史」を理解し、世界に羽ばたく人材を育てるものだと思っていたのに、日本のお国のために、日本で納税し活躍できる人材を育てるものだったとは・・・

そして、世界の各国が同じように、自国に都合の良いことを教育に織り込んでいるとは・・・

 

でも、よく考えたら、そっちの方が筋が通っているんですよね。

特に公立校は何のためにあるかというと、税金掛けて、将来ちゃんと税金払ってくれるような人材を育てるためにあるわけで。

それも、億万長者1人を育てるわけではなく、そこそこ納税してくれる人をたくさん育てたいわけで。

 

そう考えると、「個性を大切にして自由な発想で伸びる(かもしれないけれども逆に潰れてしまうかもしれない)人材を育てる」っていう、ある種の人が思い描く学校教育っていうのは、そもそも見当違いの話なんですよね。

少なくとも、公立校に求めるものではない。

 

 

集団を動かすためには制約も必要だ

私が教育実習に行ったときに一番難しくて、自分に合わないと感じたのは、「集団を動かす」ということでした。

1学年200人の生徒たちを動かす(または止めておく)ためには、規則がなければどうにもならないのです。

それは、一見するとムダな決まりでも(もちろん、ブラック校則は言語両断)。

 

たとえば「前ならえ」とか「小さく前ならえ」とかって、くだらないと思いません?

こういう謎の動きをすることが何の役に立つんだろうと思うかもしれません。

でも、まっすぐ・等間隔でなるべく短時間で並ばせると考えると、「まっすぐ並んでください」「適切な距離をとって」とかって言うよりも、「前ならえ!」って言ってパッとそれをやらせた方が早いし整うんですよ。

 

そういうシーンを、学校の中でたくさん見かけました。

 

 

集団教育と個別ケアを分けて考える

そこそこ納税できる国民を作るために、そこそこ勉強が出来て、そこそこの人間関係を築けて、それなりに生きていけるためにするのが、学校教育である。

・・・その視点で考えていくと、学校に求めるものって、変わってくると思います。

「そこそこ」以上のものが欲しければ、学校以外で学んだほうがいい。

 

大量の「そこそこ国民」を作る教育の型に当てはまらない人もいるでしょう。

「前ならえ」ができない人、学校の勉強についていけない人、または学校の勉強では物足りない人、そこそこ・それなりの人間関係を築くのも難しい人などなど・・・そういった、大勢をそこそこ教育するという学校教育で対応できない人に対しては、どうすればいいか?

そういう子には、個別ケアをすべきだと思います。

学ぶ手段は学校だけではないし、フリースクール、学習塾、公立校とは違う思想を持った私立校だってある。

学校に集団教育をしながら個別ケアまですることを求めていくっていうのは、どう考えても教員の業務過多だと思うのです。

 

今一度、学校教育の「最低ライン」を考えるべきだと思うし、子どもがいるなら「うちの子にはどういう教育が向いているのか?」と学校教育をベースにカスタマイズしてあげるのが親の役目なんじゃないかな・・・と私は思います。

 

 

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