ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

地獄とフルーツ牛乳 ~東日本大震災の話~

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こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

今日で、東日本大震災から丸10年になります。

私は関東で大した被災もしなかったのですが、今回は久しぶりに、私のあの日、そして震災を振り返ってみます。

 

2011年の3月11日、その日は金曜日でした。

私は会社で、金曜日の15時までに終わらせなければいけない仕事を終えて一息ついていました。

ああ、今週も終わりか・・・疲れたな、早く帰りたい。

その時、私の上司が会社のある場所から50 kmほど離れたクライアントと電話をしていました。

 

その上司が、首をかしげながら受話器を置いて、こう言ったんですね。

「うわー死ぬ!と言われて、電話が切れちゃった」と。

不思議そうに言う上司の声を聞いているうちに、ゴゴゴゴゴとこちらにも揺れがやってきました。

 

「地震だ」

「大きいな、ちょっと外に出ようか」

オフィスは1階にあったので、裏口からぞろぞろと歩いて避難しました。

地震か、この前もあったしな。

でも、確かにいつもよりも大きいな。

そのくらいの軽い気持ちで、足元がふわふわする、不安定な感触を味わいながら外に出ると、目の前には30階建てのオフィスビルが見えました。

ゆっくり、ゆっくり、メトロノームのように揺れるビルが。

 

その揺れるビルと、雲の合間から少しずつ光が漏れていて、 まるで上から何かが降りてくるような不思議な空・・・私の記憶の中ではその場面が今でも思い浮かびます。

 

「世界が終わるかもしれない」

 

ビルを見ながら、そんなことをぼんやりと考えていました。

「今日が人生最後の日だったら、何を食べたいか」なんて話をしたりするけど、それが今日なのかもしれない・・・

ひとまず揺れがおさまったのでオフィスに戻りました。

 

「すごいことになっているぞ!」

少し経った時に、別の部署から大きな声が聞こえました。

彼のところに行くと、ワンセグでテレビを見ていて、画面には、濁流に飲まれ流れていく家の屋根、車などが写っていました。

 

大変なことが起こっている・・・

 

そこから、とにかくみんな家に帰ろうという話になり、電車が動かない中、車通勤は禁止のはずなのに、たまたま車で通勤していた先輩に乗せていってもらい、家までなんとか帰れました。

土日を挟んで、火曜日ぐらいから電車が動き始めたので、出社をしました。

「休みたい人は休んでよし」だったし、仕事なんてほとんどないけど、とにかく日常を感じたくて通勤をしていました。

 

 

地獄を見た人の話

その後、お花見を「自粛」する動きがあり・・・そんな中、友人から「飲みに行こう」というお誘いがありました。

友人だけではなく、友人がオーストラリアに留学していた時に出会った、オーストラリア人も一緒に飲もうということでした。

聞けば、そのオーストラリア人は、名取で被災して、必死の思いで関東に戻ってきて、当時は友人の家で一時的に一緒に住んでいました。

 

名取で津波に巻き込まれ、なんとか避難所へ行くことが出来たということでしたが、その道中は「地獄だった」と語ってくれました。

 

「すべてが泥まみれで、灰色になっていた」

「泥の中を歩いていると、足にぐにゃっとしたものを感じて・・・それは泥だらけになった遺体だった」

 

震災の話はそのくらいで、本人もできるだけ別の話がしたかったようなので、友人の留学時代の思い出話や、アニメの話などをしていたような気がします。

その他の話は忘れてしまったけど、その「地獄」の話だけは心に残っています。

 

 

ボランティアに行く

※この後、被災地の写真が載っています

オーストラリア人の言葉があったからか、私は震災ボランティアに何度か行きました。

夜行バスに乗って行き、朝ついてボランティア活動をして、また夜行バスに乗って戻ってくる、0泊3日のボランティア。

また、ボランティアの後、被災していない地域に泊まってお金を落とすことで復興支援をしよう、といったツアーにも行きました。

 

地獄の話を聞いても、正直なところピンとこなかった私。

自分が泥だらけになりながら、同じく泥だらけの亡骸を踏んでしまいながら、生き残るために歩き続ける光景・・・自分がそんな映画の中のような体験をする可能性があるということが、やっぱり想像できなかった。

だから、その思いを昇華させたくて・・・つまり誰かのためというよりか自分のために、何度かボランティアに行っていました。

 

8月のある日、バスの中から見る風景は、この目で見ているのに、やっぱり信じられなかった。


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田んぼでフルーツ牛乳

そんなふうに、高い志ではないままボランティアに行っていた私ですが、印象に残ることがありました。

その日の作業は、 ご夫婦で住んでいるおうちの撤去作業でした。

力のある男性は家の中に入り、家具の撤去や掃除などを行い、残りの人たちは田畑の土からごみを取り除く作業をしていました。

私は土の作業でした。

 

これがですね・・・果てしない作業で。

いくら土を掘っても掘っても、出てくるんですね。

木の塊、茶わんのカケラ、ガラス片、金属片・・・色々なモノが入っていて、これが土だけになることができるのだろうか?と思うほど。

この作業、いつまで経っても終わらないんじゃないの?

それに、この土は塩にさらされているんでしょ?

土もダメになっているんじゃないの?

ここまで津波が来たんでしょ?

もうこの土地で農業をするのは危険なんじゃないの?

作業に集中しようと思うけれども、どうしてもそんなことを考えてしまう。

地獄で石を積んでいて、積み終わりそうになると鬼がやってきて崩してしまう・・・そんな言い伝えのような風景を思い浮かべていました。

 

私たちがやっているこれは、一体なんのためなんだろう?

モヤモヤしながらも、単純作業が好きな私は夢中で土を掘っていました。

 

そんな中、そのお宅のご夫婦が、差し入れをくださったんですね。

それが・・・セブンプレミアムのフルーツ牛乳。

「近所でセブンイレブンが営業しているのか」という驚きと、「なぜフルーツ牛乳なのか?」という疑問と、そして「自宅が大破して畑もなくて、きっとお金も大変な中、1日だけのボランティアに差し入れしてくれるなんて」という申し訳なさとありがたみと、色々な気持ちが交差する中、そのフルーツ牛乳をいただきました。

 

「なんのためにこの果てしない作業をしているんだろう?」と「なんのためにボランティアに差し入れをしてくれるんだろう?」を、薄黄色の甘い液体で流しこんで、胃の中で混ぜた時、文字通り「腑に落ちた」気がしました。

 

これは地獄なんかじゃない。

ここはまぎれもない現実で、きっとこの人達にとっては、この畑が希望なんだ。

もちろん、すぐに農作業ができるようになるとは思っていないだろう。

でも、ゴミがなくなって、また農作業を再開できるかもしれないと思えることが、希望なのだろう。

 

 

そんな私の想像は、ボランティア終了の時の挨拶でさらに固まりました。

「ここで農業を再開できるのは、あと5年、いや10年かかるかもしれない。でも、私たちはこの地で生き続けたいと思っています」と。

 

それまで、何度ボランティアに行っても、遠い世界の出来事のように感じていた。

だって、自分の住んでいるところがこんな更地になってしまうなんて、やっぱりどうしても想像ができないんだもの。

そんな私にとってこの日が、震災を「自分ごと」に一番感じた1日だったと思う。

自分がもしも、この地に住んでいる、フルーツ牛乳のご夫婦だったら・・・と考えた日。

 

 

震災を知らない世代へ

ここまでが、私の個人的な震災の思い出。

書きながら、10年経って、どんどん薄らいでいるのを感じていました。

そして、これからもどんどん薄らいでいくのだろうと思います。

それは私が「当事者」ではないから。

日本中が混乱と悲しみに巻き込まれる中、何をしていいか分からず、とりあえず身体を動かしてみた10年前。

自分ごとのように感じられた瞬間もあったけれども、やっぱり当事者の恐怖と悲しみと苦しみには到底及ばないのです。

 

でも、そんな私でも、子どもには震災の恐ろしさをしっかり伝えていかなければならない。

私たちの世代は「戦争を知らない世代」と言われていて、「だって生まれていないんだもん、しょうがないじゃん」と思っていたけど、震災は知っている世代になった。

 

今日はテレビを見ながら、夫と震災のことについて話をしてみようと思います。

 

 

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