こんにちは、ドクダミ淑子です。
先日、「コロナ観の違い」という話を書きました。
最近、新型コロナウイルスの話もしかり、不倫もしかり・・・色々なことに対する「線引きのライン」ということについて、少し考えていました。
いったい、気にする人/気にしない人ってどうしてこんなに分かり合えないんだろう?
私はどちらかというと、大雑把な人間で、だから神経質気味の母とは折り合いが悪かったんですよね。
今は、距離も離れて、お互い丸くなったので、前よりずっとマシになったけど。
(もしかしたら、これが公開されている頃は、里帰りして揉めているかもしれない・・・)
そして、自分に対しても、疑問がありました。
「自分はなぜこんなに大雑把で適当人間で、そのままで生きていけるのだろう?」
「何か大事なモノが見えていないのではないか?」
そんなことをモヤモヤ考えていると、この本の文庫版書き下ろし「パンとサーカスの日本社会」に面白い一節がありました。
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不安感の強い人と弱い人
「パンとサーカスの日本社会」は、新型コロナウイルスのあれこれについて、加筆された章になっています。
トイレットペーパーの買い占めや、他県ナンバー狩り、自粛警察など、「不安に駆られる人たち」について触れ、なぜそこまで不安になる人が出てくるのか?という話が書かれています。
なぜ不安感はばらつくのでしょうか? 進化論的には、「ふたつの異なるサバイバル戦略があるから」と説明されます。
旧石器時代のサバンナで、おいしい果物が沢山実っている茂みを見つけたとしましょう。「不安感の低いひと」は、歓声を上げて茂みに駆け寄り、たらふく果物を食べるにちがいありません。これが「生存戦略Ⅰ」です。
ところがその茂みには、腹をすかせたライオンが潜んでいるかもしれません。無警戒に果物をむさぼり食っている「不安感の低いひと」は格好の餌食です。
そんなときに生き残るのは、集団から遅れ、こわごわとあたりを見回している「不安感の強いひと」でしょう。おいしい果物は食べそこなうかもしれませんが、生命を落とすこともないのですから、これが「生存戦略Ⅱ」になります。
この続きは、だからどちらも生き残り、どちらも存在しているのだ・・・という話でした。
この話を、トイレットペーパー買い占めの話にすると、不安に駆られて買い占める人は「生存戦略Ⅱ」の人で、なぜそんな行動をするのか理解できないのは「生存戦略Ⅰ」の人間なのです。
私はトイレットペーパー買い占め騒動が起こっていた時に、「別にそのへんの紙で拭いて、ごみ箱に捨てればよくない?買い占めするなんておかしいよ」くらいに考えていたんですよね。
そうしたら、「私はトイレットペーパーが常に3ケースないと不安です」「レトルト食品は何十食もストックがないと不安です」という趣旨のご意見をいただき・・・申し訳ないけれども、全く理解できませんでした。
今考えると、そういうコメントを下さった方は、「生存戦略Ⅱ」の人で、私は不安感ゼロの「生存戦略Ⅰ」人間だったのだな・・・と今になってやっと理解できました。
不安感の異なる人が一緒に暮らすためには
人って、「不安感が強いか弱いか」で付き合う人を決めるというわけではないですよね。
それに、私のように、「実の母親と不安の感じやすさが全然違う」というパターンだってあるわけです。
むしろ、「不安感ゼロの人だけの集団」「不安感MAXの人だけの集団」って、滅びやすいから、「集団の中には両方セットする」ってプログラミングされている方が合理的な気がするし。
不安感に大きな差がある場合、どうすればよいのでしょうか?
まずは、お互いのことを「おかしい」「異常だ」と思わないことが大切だなと思います。
「なんでいつも、こんなに起こりもしないことに対して心配しているのだろう?」
「なぜこの人は、危機感と言うものがカケラもないんだろうか?」
お互い、自分を軸に考えると、相手の行動を「なんで?どうして?」って思いがちだと思うんですよね。
でも、「この人は、自分よりも不安を感じやすい(にくい)人なのだ」ということを頭の片隅に置いておく。
そうすると、「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。だって○○で備えているから」とか、「やっぱり心配だから、せめて△△はしてほしい」といった言葉が出てくるんじゃないかしら?
そんなことを考えていると、色々なシーンで、「なぜ?」と思っていたことが少し晴れてきました。
「なぜあのクライアントは、成功率90%の提案に首を縦に振らなかったのだろうか?」
「なぜあの人は、いくら言っても『でも』『だって』って言っていたんだろう?」
私もまだまだ、色々なモノが見えていないし、もっともっと人間関係をよくできるポイントがあるんだな・・・と思ったのでした。
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