ドクダミ自由帳

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【本感想】世間とズレちゃうのはしょうがない ズレとの付き合い方

こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

書店をぶらぶらしていて、タイトルで気になったこの本を買いました。

 


 

 

 

どんな内容なの?

公式サイトによると、こんな内容です。

 

世間からはじき出されないことを願う理論派・伊集院光と、最初から世間からはみ出している理論超越派・養老孟司。博覧強記でゲーム好きという共通点がある二人が、世間との折り合いのつけ方を探ります。

見た目が大きくて、子どものころから同級生との違いをひしひしと感じ、「世間からはじきだされることがこわかった」という伊集院さんは、不登校になった理由や落語の道に進んだわけを明かしつつ、「人間はそもそも群れの中で生きる動物。『他人に優しくなるほうが得』ということになるんじゃないかな」と語ります。

一方「自分ははじめから世間から外れていた」と語る養老さんは、「都市においては、意識で扱えないものは排除されます」という都市論・世間論を展開。さらに、たまには世間から外れて世の中をながめてもいいんじゃないか、と世間から抜け出す方法を提案します。

抱腹絶倒のトークから、世間とズレながら生きていくヒントが得られる一冊です。

 

 

ズレているけれども、対照的な2人

この本は、タイトルの通り「世間とのズレ」を感じている2人が、その「ズレ」をテーマに語るという対談本です。

 

伊集院光さんと、養老孟司さんと聞くと、養老さんの方が理論ガチガチで話をし、伊集院さんが割と感覚で語るのかな?と思ったら、実際は反対だったんですよね。

そこが面白い。

 

伊集院さんの方が、世間とのズレをとても敏感に感じていて、その「ズレ」はどこからくるのか?どうしたらズレずにいられるのか?などを理論化・言語化して考えて、語るタイプなんですよね。

彼は高校を中退しているのですが、その理由が、「勉強すればするほど、自分が今まで学んできたことが役立たなくなる。どう頑張っても100%にはならないということに絶望してしまった」という理由で。

 

対して、養老さんの方が、幽霊や魂といった理論化できないことも寛容だったり、「虫は好きだけどクモは嫌い」とかよくわからない線引きをしたり、「わからないもんはわからない」という考え方。

100%の話で言うと、戦争体験の中で、「1日で大人たちの言うことが180度変わる」という経験をしてきたからか、「100%にならないのは当たり前」「いつ自分の学んだことがゼロになるか分からない」ということがあるからか、あまり気にしていない。

 

2人とも、ズレているんだけど、そのズレをどう認識しているか?そしてズレとどう付き合っていくか?のアプローチが全然違って、さらにその「ズレ」を言語化していくのが、とても面白い。

 

 

「私はズレている、じゃあどうする?」

2人に共通しているのは、「私はズレている」ということを、もう諦めているということです。

1937年生まれと1967年生まれの2人ですから、「私は世間とズレている、どうしよう・・・」なんて、もう悩みつくしたのでしょう。

養老さんなんかは、大学に入ったときから「解剖学なんて杉田玄白の時代に終わっている学問だ」と思ったというから、もう「ズレたまま生きていく」覚悟とその年数が違うと感じた。

 

ズレていることを悲観視して、どうにか修正しようと思う、そうやって努力するという方法もありだと思うんですけど、どちらかというとズレている私から言わせていただければ、それってすごく苦しいんですよね。

天然でズレていない人と、天然でズレていて人工的にズレを矯正しようとするする人の差ってなかなか埋まらないし、て努力してズレを埋めようとする人にとっても、それを見る人にとっても不自然さって残るんですよね。

 

そうじゃなくて、「私、ズレている」と実感して、ある意味開き直って、ズレたまま生きていくことを決めた2人。

そしてその上で、「じゃあどうやって生きようか」という視線になっている。

そういうスタンスって、いいなと思ったんですよね。

もしかしたら、私も同じタイプのズレている人間だから、共感しただけかもしれないけど。

 

だから、今「私はズレているのかも」と悩んでいる人に、読んでほしいなと思う。

 

 

「ズレている」をスタンダードにしようとする人に違和感

「世間」と上手く距離を取りながら、ズレている人として生きていく。

・・・私がそういう風に考えている2人に共感しているからか、最近たまに見かけるある種の人たちに違和感を持つんですね。

 

それは、「私は世間からズレているが、それは今の世間がおかしいのだ」と言って、世間とのズレを実感しながら、そのズレをスタンダードにしようとする人達です。

 

たとえば、「サラリーマンはダメだ」とか、「私の書いたことに共感できない人は許さない」とか。

自分がズレていることに苦しんでいるのかもしれないけれども、その理由を「みんなが間違っているから」「みんなが考えを改めろ」みたいに言っているんですよね。

 

それは、ズレを上手く生かせていないんじゃないの?と思ってしまう。

 

 

ズレちゃうのは、しょうがないのだ

タイトルにもあるように、ズレちゃうのは、しょうがないのです。

それを「世間」のせいにするのではなく、「諦める」「ズレを認める」方が、ズレている自分は楽に生きられるんじゃないかな?と思う。

 

しょうがない。

 

だから、そのズレを楽しみながら、時には言語化したり、時には諦めながら、自分の心が楽しい方向に向かうように生きていくことが大事だなと、なんだかんだで人生を楽しく生きている2人の言葉を見ていて思ったのです。

 

 

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