こんにちは、ドクダミ淑子です。
書店をうろうろして、パッと目についたこちらを、先日買いました。
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桐野夏生さんという名前と、谷崎潤一郎というモチーフに惹かれて、即購入しました。
パッと見て「読みたい」と思える本に出会えることは、幸せだなと思う、今日この頃。
「桐野夏生の小説」と言えば・・・
大学生だか、社会人まもない頃だかは忘れましたが、20歳前後で桐野夏生さんの小説にハマった時期があったんですよね。
もう記憶も曖昧ですが、それでも強い印象に残っているのは、『OUT(アウト)』。
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弁当工場でパートしている主婦の1人が、夫を殺してしまい、それをみんなで協力して、解体してトイレに流しちゃうという、とんでもない話です。
グロテスクな描写もありながら、登場人物1人1人の人物設定・性格が緻密で、それもあってとても臨場感があって、ハラハラドキドキしながら読んでいった記憶は、残っている。
そんな記憶があったから、迷わず手に取ったんですよね。
どんな内容なの?
公式サイトによると、こんな内容です。
美しい妻は絶対的な存在。楚々とした義妹は代表作の原点。そして義息の若い嫁は、新たな刺激を与えてくれる......。
大作家をとりまく魅惑的な三人の女たち。嫉妬と葛藤が渦巻くなか、翻弄される男の目に映っているものは――。
文豪「谷崎潤一郎」を題材に、桐野夏生が織りなす物語世界から炙り出される人間たちの「業」と「欲」。
谷崎潤一郎の周りを彩っていた女たちの話を、「義妹」重子の目線で描いた物語です。
実話とフィクションの境目を埋めるのは
これは最後に、こんな一文が入っていました。
この物語は、事実を基にしたフィクションです。
ここを読んで、ハッと目が覚めた。
そうだよね、フィクションだよね。
だって、重子さんの心の内なんて、日記が残っていない限り、事実なわけがない。
そんな、少し考えれば当たり前のことですら思い浮かばないくらいに、この物語はリアルだったのです。
参考文献は、谷崎潤一郎全集と、伝記と、往復書簡と、重子さんの姉であり谷崎の妻である松子さん、その義理の娘である渡辺千萬子さん、千萬子さんの娘(谷崎の孫)の渡辺たをりさんが書いた本。
そこから、重子さんのキャラクターを作り、細かい日常の事件や、谷崎潤一郎とどんな会話をしたのだろうか、それにより彼女の心はどんな風に揺れ動いたのだろうか・・・を想像で書いているのです。
この、事実から物語を作るってすごいことだなと、改めて思ったんですよね。
事実とフィクションの境目を埋めるのは、想像力。
作家の実力とは
以前、『BUTTER』を読んだ時にも思ったけど、実際の事件、実在した人物と、その人について書かれたもの(新聞や雑誌の記事)、本人の言葉(インタビュー、手記など)を読んで、その行間にどういう「思い」「性格」「考え方」が隠れているのかを探る・・・ということができる力、そしてそれを小説として面白くなるように描ける力というのが、「自分自身を描かない」タイプの作家としての実力なのだなと思ったのです。
もしかしたら「憑依」させているのかもしれない。
女の「我」が強まる時
大学生だか高校生の時だかに、日本文学のレポート提出で、「夏目漱石の文学の世界は、男性的で女性はお飾りだから、私はそれが嫌いだ」みたいなことを書いたことがあるんですよね。
なんでそう思ったか、どの小説を読んでそう思ったか、あまり覚えていないけど。
丁度その時に読んでいた谷崎と比較して、そう感じて、書いた記憶は、ちょっとある。
若くて、ちょっとフェミニズムなんかを大学でかじった当時の私には、谷崎は女性をリスペクトしているように見えたんだと思う。
でも、この小説を読み直して、そうではないのかもしれないと思った。
谷崎自身は、自分の思い描く女性像があって、現実の女性をその女性像の「型」にはめ込んで、それを楽しんでいたのではないか?と。
だから、谷崎の周りの女たちは、彼が理想とする「型」に自然とはまっていく。
松子は絶対的な妻として、重子は松子の対照的な「陰」として、千萬子は谷崎を振り回す新しい風として・・・そしてその「型」にはまらなかったり、「型」を与えなかった女たちは、彼の元を去っていくしかなくなるのです。
美恵子なんかは、まさにそれ。
でも、「型」から抜け出した瞬間に、女は強くなるのです。
「我」がでる、というか。
美恵子は、離れて暮らす父が亡くなった時、そして重子は谷崎が衰弱していった時。
千萬子も、谷崎からの支援が無くなった時に、本来の千萬子が開花したのではないか?なんて思う。
だから谷崎が、女をリスペクトしていたか?というのは、今になって疑問になってきたな。
といっても、私の記憶はだいぶ、曖昧。
実家に帰ったら『春琴抄』『痴人の愛』『細雪』 あたりは読み返そうかなと思いました。
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