こんにちは、ドクダミ淑子です。
Twitterでこんなやりとりを見ました。
- ある女性をブスと言っているツイート
- 1に対して、「その人だって、誰かの大事な娘さんなんだから、そういうことを言うな」というツイート
- 「誰かの娘だから」という理由がそもそもおかしいというツイート
3については、「誰かの娘だから」「誰かの妻だから」「誰かの母だから」という女性の役割で、「だから守ってあげなければ・優しくしなければ」というのはおかしい!そういう立場を抜きにして、人間として扱い、人間だから優しくすべき!・・・という内容でした。
私はこれに、なんとも言えぬモヤモヤを感じたんですよね。
人間扱いされていない?
最初にこれを読んだ時には、3番の人に私は共感したのです。
私も女性で、父母の娘で、夫の妻で・・・というポジション。
でも、「あの人の娘だから、○○しよう」と言って優しくされるのは、嫌だ。
「ドクダミさんだから、○○しよう」と言ってほしいと思ったからです。
女性を男性の付属物みたいな風に認識している人がいるなら、それはそれで反論したい。
でも、2の人の文脈って、そうじゃない気がするんですよね・・・
人間は、役割の中で生きている
そもそも、人間は生きている以上、「役割」の中で生きていますよね。
それは女性だけではなく、男性も。
誰かの家族だし、誰かの友人だし、どこかの学校や会社の一員だし、ここまで全部当てはまらなくてもどこかの地域の一員だし・・・。
「役割」から抜け出して、「個」としていつも関係性がないまま一人で立っている人は、いないわけです。
その中で、私はお客様にとってどういう営業担当でありたいとか、父母にとってどういう娘でありたいとか、夫にとってどういう妻でありたいとか、そういう立場に応じて理想像を持ち、行動を変えていくわけです。
仕事モードのまま夫と接することはないし、逆もしかり。
だから、「素の私を見てくれ」というと、どれが素の私なのか、自分でもわからない。
「1人の人間として扱ってくれ」も、なんだかどうやって扱われるのか、よくわからなくなる。
愛されていない子もいるという意識が抜けている?
あと、もう1つ。
別の人で、「誰かの愛しい娘さんだからという理由は、親に愛されていない人のことを配慮していない」というご意見もありました。
たしかに、まぁそれも一理ある。
「ブス」と言われて、「まぁまぁ、やめなさい、この人だって誰かの愛しい娘さんなんだから」と返されたら、大切にされていた記憶がない人は傷つくかもしれないですね。
でも・・・
「誰かの娘だ」で気付けるなら、それはいいんじゃない?
2の発言をするような人は、そもそも「愛情深い人で、子どもを愛するということを当たり前だと思っている人」なんですよね。
自分の子ども=愛おしいっていうのが当たり前で、そして、誰もが自分と同じ気持ちになると思っている。
だから、「私がそう思うのと同じように、あなたも自分の子どもが愛おしいでしょ?だからやめなさい」って、何も考えずに言っちゃうの。
それが女性だったから、「娘」って言っちゃったのかもしれない。
それって、無神経だけど、まっすぐで良い事じゃないか!とも思ってしまう。
むしろ、自分の子どもを愛おしいと思えない人の割合の方を減らしてほしいじゃん。
だから、「誰かの娘さんなんだから、自分の子どもも同じように言われたらどう思うか考えて見なさい。そしてそういうことを言うのは止めなさい」で、すんなり納得できる人たちばかりなら、それはそれで良いんじゃないか?
しかし、世の中はそう甘くもない
でも、他人を取り上げて「ブス」とか言っちゃう人は、「誰かの娘だから」なんて理由で納得するわけないんですけどね。
「自分がその本人だったら」「自分の家族がそういうことを言われたら」っていう想像力がカケラもないから、そういう無神経なことを言えるわけで。
共通認識って、難しい
Twitterで議論って難しいのは、同じ日本語を使っていて、同じ日本人なのに、考えていることが全然違うからだ、と改めて思いました。
- 他人を自分の軸で評価する無礼な人
- 自分の家族や周りの人を大切に思う人
- 男女平等に敏感な人
こんな三者が、同じテーマについて話し合う・・・
そして、使っている単語は一緒だけど、その言葉の「意味」は全然違うのです。
「娘」というのは、ある人にとっては「誰かの大切な人」という意味で、ある人にとっては「女に押された烙印」という意味で。
だから、言葉のセレクトをちょっと間違えると、炎上してしまうこともあるのです。
うーん、Twitterって難しいなぁ・・・
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