こんにちは、ドクダミ淑子です。
私は常日頃から、営業として生き残っていくためには、何が必要か?と考えています。
そして、相手に合わせて自分を変えることで、相手にとって「心地よい相手」になることが大切なのではないか?と考えています。
仕事がデキるようになろうということだったり、相手のペースに合わせることだったり、もろもろ。
でも、その「相手に合わせる」って、やりすぎると良くない方向に進むんだなと思った出来事がありました。
「私の時代はセクハラなんて当たり前だった」と語る人を見て
そう思ったのは、あるツイートを見た時のことです。
あくまでも13年前ですが、と前置きをした上で、新卒で入社した会社は、セクハラが当たり前だったという話をして、「営業の男性が女性事務員に下ネタや冗談を言って生産性上がるならそれでいいんじゃない、と思っていた」と書いていたんですね。
むしろセクハラする人に合わせちゃった方がラクだ、というニュアンス。
しかもこの人が、「女性ならではの視点で、女性のキャリアについてアドバイス」的な人っていうのが、更に気になったのですが、まぁその話は置いておいて。
ここで書いた人ですな。
これって、「自分を無理矢理合わせてしまう」という話だと思うんですよね。
私の理想としている、営業像を極める・・・というのと違うんだけど、ちょっと方向を間違えてしまうと、こういう風に、セクハラ容認して、会社の雰囲気とか生産性とか、全体の利益みたいなのを考えてしまう。
いや、本当は長期で考えると利益でもなんでもないんだけどね、そんな環境なんて。
自分を殺さないためのポイント
私が言っている「相手に合わせる」っていうのと、件の女性キャリアアドバイザーの言っていることって、どこで違ってくるのか?という風に考えてみましょう。
それは、きっと「一線を越えていない」というところだと思うんですよね。
営業として、私はできるだけ相手のペースや考え方に合わせますし、ちょっとだけ先だしするようにしています。
でも、たまに過剰サービスを要求する人っているじゃないですか?
「営業なら深夜に訪問して当たり前」みたいなことを言う人とか。
でも、そこは線引きをしなきゃいけないと思うのです。
その人にとっては、深夜に訪問してくれるのが心地いいかもしれないけれども、こっちにとっては心地よくない。
そもそも、「常識的に」って考えると、おかしいでしょ。
そういうのに合わせる必要もないし、会社のセクハラ発言も、同様。
「常識」がマヒしてしまわぬように
「そういう環境だったから」「みんながそうだったから」「はじめはおかしいとおもったけど、反抗するのも面倒だから」
色々な理由で、おかしいと思うセンサーは麻痺してしまう可能性があります。
でも、おかしいと感じるセンサーがぶっ壊れると、自分の気持ちを察知するセンサーも同時にぶっ壊れてしまいます。
おかしいと思うようなことを「当たり前」と思って続けていると、知らず知らずのうちに自分の心も蝕まれていきます。
そうならないためには、どこかでブレーキをかけるか、身近な人にブレーキになってもらうことが大事だと思うんですよね。
だから、会社や普段いるコミュティとは別の世界にいる人と定期的に交流することによって、自分の尺度というかセンサーというか、物差しというかをちゃんと確認していくのがいいんじゃないかな。
リアルでも、ネットでも。
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