こんにちは、ドクダミ淑子です。
「かしましめし」 の最新刊が出たので、買って読みました。
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1巻・2巻の感想はこちら。
帰る場所があるということ
相変わらず3人で暮らしていて、美味しいものを作って、みんなで食べています。
外で窓際の仕事の中で奮闘するナカムラ、復縁と新しい恋でゆらゆら揺れる英治、そしてまだ傷が癒えないけれども少しずつ外で働き出す千春・・・と三者三様なのですが、ごはんは一緒。
それが、「家族」「恋人」とかではないところが、今っぽいなと思う。
「今っぽい」・・・語彙力が無くてごめんなさいだけど、恋愛が絡まない、家族としてある意味「一緒にいなきゃいけない」 存在でもなく、一緒にいる必然性がないのに、一緒にいる存在みたいな。
そしてそれをつなぐ、ごはん。
「恋愛」を冒険とする人・しない人
そんなことを考えていると、私のように結婚してしまった人て、この「外」と「家」の感覚が、未婚で恋愛まっさかりの人とは違うんだなと、ふと思いました。
恋愛まっさかりの人、恋愛が好きな人って、恋愛=外でする「冒険」みたいなものだと思っていて、だからこそ帰る場所=家で癒しとかを求めるのかな、と。
ナカムラなんかはそれで、恋愛は外で、でも家には恋愛を持ち込まずに、帰って一人で寝たい・・・みたいなことを言っているわけで。
英治もそう、「ノンケに惚れたら地獄」とか言いながら、でもやっぱり惚れちゃって、その話を家で千春とナカムラにして頭と心を落ち着けているわけで(やっぱり好きな人に会うとその落ち着きも一瞬で無くなるんだけど)。
そういう、「外」での冒険を「家」で癒すみたいな3人なのです。
ここで私のことを振り返ってみると、こういう「外での冒険=恋愛」っていう式が無くなっちゃっているんですよね。
もともと恋愛に重きを置いていないからといったらその通りなんだけど。
私はこんなんだから、不倫には否定的なんだけど、いつまでも「外で冒険(=恋愛)、家で癒し(=家族)」みたいなことを言っている人は、冒険の楽しさにハマっているのかもしれないな。
そんなことを思いながら、表紙を見返すと、こんな言葉がありました。
死なないためにごはんを食べて、死んでもいいような恋がしたい。
恋人じゃない、家族でもない「食べ仲間」。だから話せる本当のこと。
そう、まさにコレだなと、改めて思いました。
待ちくたびれつつ、次巻を待つ
3巻の最終話はこんな言葉で締められています。
「この行為を私はのちに後悔する。ああなるなんて思ってもみなかった。」
もう!思わせぶり!
次が待ち遠しいじゃないか!!
・・・と思うのですが、ここから結構、かなり、とっても、すごく待つんですよね。
前回感想を書いたのが、2018年の11月。
約1年3か月ぶりの新刊なのです。
月刊誌・ほぼ隔月連載だと、6話集まるのに単純に1年以上かかるんですよね。
わかるんですよ、これだけ書いているわけではないということも、Twitterフォローしてるから、おかざき真里先生の暮らしぶりも「阿・吽」めっちゃ書いていることも・・・
でも、ああ、もう待ちきれない!!!って思ってしまう。
それに比べると、週刊誌って3ヶ月に1回くらい出るってすごい良いペースなんだよな。
まぁそんなこと言っても出てこないので、煮込み料理のように、 待つことも美味しさのうちだと思って、じっくり、ゆっくり待つとしましょう。
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