こんにちは、ドクダミ淑子です。
私の職場に、脳みその中に綿あめかマシュマロが入っていると思われるような人がいるんです。
この話に出てくる子ですね。
いまだに割合の計算はできないし、漢字も読めないし書けないし、商社とメーカーの違いは説明できないし、仕事の抜けもれっぷりは本当にとんでもない。
でも、最近は、それをカバーできるくらいの良いところもあるなと思っているのです。
言っていることも私からすれば「とんでもないな」と思うこともあるけれども、「なるほど、そういう考え方もあるのか」と思うこともある。
ちょっと前までイライラすることも多かったけれども、最近は「私にはないものを沢山持っている」という意味で、年下だけれども尊敬できる部分があるな、と思い始めました。
これも、私が自分の中の「常識」にこの子を当てはめようと思わなくなったからだな、と思うのです。
仕事がデキなくても、他にいいところがあるから、ダメじゃない。
仕事がデキるようになるために、工夫や努力をしているのも知っている。
自分の境遇に引っ張られてしまう
そんなことを思い出したのは、思いっきり自分の立ち位置に引っ張られてしまったと実感した出来事があったからです。
お勉強してきてない人ほど「自分が理解できないことには価値がない」と判断する傾向がある。この時お勉強してきた人は自分の無知を認識し新しいことを学ぶ機会を得たと心が躍る。こうして差が拡がっていく。
— Spica (@Kelangdbn) December 27, 2019
逆の方もいて、「お勉強してきた方の方が、これまでの自分の知識を正しいものだと思うので、それと違うものはバッサリ切り捨てる」「お勉強していない人の方が知らないことを素直に学ぶ」というご意見もありました。
私はお勉強をしてきて、進学校から有名大学に行った立場なので、どうしても「自分=お勉強してきた人」で、お勉強してきた人を認めたくなってしまう。
・・・だからといって、お勉強してきていない人をディスる意味なんて、ないんだけどね。
お勉強ばかりしてきて自分の知識にとらわれている人で、新しいことを吸収せずに拒絶するタイプの人もいる。
でも、どんな意見にも耳を貸し、柔軟に受け入れる人もいる。
お勉強してきていない人で、ツイートに書かれているように、「自分の知らないことは、存在しないこと」みたいな人もいる。
でも、知らないからこそ素直に吸収する人もいる。
それって、「勉強してきたか、してきてないか」ではなく、「人の話を聞く気持ちと姿勢があるか」なんだと思うのです。
「人の話を聞く気持ちと姿勢」は、スペック(学歴・資格・経験など、有無で語れるもの) ではなく、タイプ(性格・好み・志向)の問題なんだと思うんですよね。
何でも二項対立にしたくなるけど
私たちは、なんでも二項対立で語りがちです。
男vs女とか、都会vs地方とか、オタクvs非オタクとか、既婚vs未婚とか、既婚の中でも早婚vs晩婚とか、いじめっ子vsいじめられっ子とか・・・
そしてついつい、自分の立場の方を「善」としてしまいたくなる。
でも、そんなのって、本当は全然意味がないんですよね。
たしかに、「こういう集団は、こういう傾向がある」という事を統計的に出して、分析することで何か役に立つことはあるかもしれない。
でもそれは、一般人が自分と違う立場をディスることに使っても、どうしようもないのだ。
誰か、自分と違う立場の人たちを批判したくなった時、それは自分自身に何か思うことはないか?と一度考えてみたほうが良いなと思います。
それが本当に「この立場を批判しないと不幸になる人がいる」という善の気持ちからなのか、それとも「この立場の人を批判することで自分の心の平穏を得たい」なのか・・・自分の中で問うて、そこから行動に移すべきだなと、先のツイートを反射的にリツイートした私は反省したのでした。
こちらもどうぞ