こんにちは、ドクダミ淑子です。
私の夫は、毎週日曜朝の『ONE PIECE』を見ながら、よく心配しています。
「このペースで行くと、ジャンプの話を追い越してしまう・・・!!!」
ジャンプで連載している内容をアニメが追い越すということは、1000%無い、あり得ない話なのですが、なぜか定期的にその心配をしています。
そういうアホなこと言っちゃうところも、なかなか可愛いぞ♥と、私は夫を微笑ましい気持ちで見ています。
でも、なんなのでしょう、このあり得ないことを必死で考える、ムダな心配は・・・。
「ありえないことを心配する」と「ありえることを想定しない」の差
さて、「ありもしないことを心配する」は無駄なのですが、「あるかもしれないことを想定する」は大切なことなのです。
この両者の線引きっていうのは難しくて、そして後者・あるかもしれないことを想定しないことが炎上を起こしていると思うのです。
先日、YouTuberからセクハラを受けたと、ある女性が告発し、謝罪動画で「嘘で~す!」とやって炎上したようです。
その女性はなぜか「レイプされたことあるけど、強くなったらされなくなったから、みんな強くなろう」的な言い訳をし、さらに火に油をドバドバと注ぎました。
なぜ、「たとえ冗談でも本気で怒る人がいる」「今後のセクハラ・パワハラの告発を『炎上商法だろ』『目立ちたいだけ』と思わせかねない」などを考えられないのか、よくわかりません。
また、吉本興業から契約解除された芸人が会見を開き、事務所とのイザコザを洗いざらい生放送しました。
会社は、なぜこういう暴走をするかもしれないという可能性について考えなかったのか・・・よくわかりません。
「〇〇かもしれない」なんてこと考えすぎたらつまらない、という意見も出るかもしれません。
でも、最悪の事態になると、言い訳をしたり、釈明をしたり、騒動を沈静化させるために使う労力は果てしないものになります。
「ジョーク」で済ませて笑いにしたいなら、そこそこの労力で話題になるネタなんて、他にたくさんあるんじゃないでしょうか?
「別にどうってことない」っていうレベルの差
そして、普段「コンプライアンス意識」だったり、「他人の心を傷つける」という感覚が薄い人ほど、「別にどうってことなくない?」というラインがアウト側だったりして、批判する側と意識のすれ違いが起こっています。
例えば、冒頭のYouTuberに対しては、こんな意見も見受けられました。
「このくらい尖っていないと面白くない」
「彼のキャラだとこれはアリ」
「誰かのことを傷つけようとしたんじゃなくて、単にふざけただけ」
「ドッキリ番組と同じ」
そして、彼らと「重大だ」ととらえる人の意見の応酬は、いつまで経っても平行線でした。
そもそも立っているフィールドが全然違うし、「ディスカッション」「意見交換」が全く成り立っていないんですよね。
迷惑動画をSNSにアップしても、「こんな事で人生台無しにされるなんてかわいそう」って人も一定数出てくるので、この問題はきっと、いつまで経っても平行線なのでしょう。
大切なのは、「自分とは違う考え方の人」を想像すること
こういう感覚のズレを見ていると、「私はこう思う」とか「私の周りの人はみんなそうだ」とか、お互いが「私主体」でしか語らないことから来ていると思うのです。
私は普段から仕事の中で、「自分がやらない仕事を、やりたそうな人を探す」ということをしています。
だから、「私はこの仕事はしたくない」ではなく、「じゃあ、どういう思考を持った人だったら、やるのか?この案件をどう見るのか?」ということを考えるのです。
こういうことって、出来ない人が意外と多いのではないかと思うのです。
世の中には、色々な人がいます。
ネットだと、普段接しないような世界の人や、考え方の人とも、うっかり繋がってしまうことなんて、沢山ある。
だからこそ、ちょっとだけでも、「こういうことが起こるかもしれない」という気持ちを持って、発言をすべきだと、最近のアレコレを見ていて、思ったのでした。
ちなみに、冒頭のONE PIECEについては、関東では来週からオリジナルストーリーが始まって、連載との差を開ける作戦に出るようです。
やっぱり杞憂だわ・・・
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