こんにちは、ドクダミ淑子です。
ある日、ふとTwitterを見ていると、この記事を見つけました。
最近、ちょっとだけ忙しくて1500字程度のブログを書く時間を取るので精一杯だったので、3000文字チャレンジ、なかなか書けていないなぁ・・・と思っていた中でのこの声。
一体何があったのか?いや何もなかったのか?
私にはその辺の「事情」は良くわからないので、今回はあくまで私が思う「馴れ合い」についてを書いていこうと思います。
私は、「馴れ合い」なグループにいる
私は、高校時代からの友人グループとの付き合いが続いています。
ざっくり分けて、2つ。
そのうちの1つの集まりは、まさに「馴れ合い」と言っていいような関係だと感じています。
とにかく、優しい、優しすぎる。
そして、思っていることを言わない、言わなすぎる。
明らかに太っている私が「太っちゃって・・・」と言っても、「そんなことないよ」と言ってくれるし、仕事がなかなかうまく行かないと悩んでいても、「大丈夫、きっと淑子ならちゃんと乗り越えられるよ」と励ましてくれるし、私が明らかに間違ったことを言っていても、スルーしたり「そういう考え方もあるかもしれないね」と言ってくれる・・・
そして、「何がしたい?」「何が食べたい?」は、だいたい「淑子が食べたいものでいいよ」で返ってくる。
だから私が勝手に決めるし、決めた店には文句を言わないし、褒めてくれる。
ちなみにもう1つのグループは真逆で、喜怒哀楽がはっきりしている。
今集まろうものなら、姑や旦那への怒り、最近感動したこと、仕事のモヤモヤ、生活について・・・とにかく色々な感情が渦巻いて、刺激的で楽しい。
私が何か意見を言うなら、「それは違うと思う」「こういう立場でそれを考えると・・・」なんて意見がバンバン出てくる。
私は、そういう意見のぶつかり合いをすることが好きだ。
自分の意見を言わない人たちへ、いらだった時期もあった
私は、「馴れ合い」と言った方の彼女らからは、グチをほとんど聞いたことがない。
周りを傷つけたり、不快にさせたり、意見が衝突しないように、きっと精一杯配慮しているのだろう。
彼女たちのふるまいに、20代前半くらいまでは疑問を持っていた。
なんでこの人達は、自分の意見を主張しないのだろうか?
私が言うことに、反対意見をぶつけたりしないのだろうか?
時にはその、曖昧な態度、どう考えても反対したいのに回りくどく、言葉を選んで言う姿勢にいらだったこともありました。
疑問に思いながらも、その優しさが心地よく、距離を置くなんてことはしないで付き合い続けていました。
今は私も馴れ合っている
今はどうかというと、もう彼女らに対するモヤモヤは消えました。
長年付き合ってきて、「彼女たちにとっては、こういうコミュニケーションの方法がデフォルトなのだ」と分かったからです。
私が自分の意見をバンバン言いながら、感情を垂れ流しているのがデフォルトなように、彼女たちは周りを気遣い、人を傷つける言葉を使わないのがデフォルトなのだ、と。
そう気づいてから、私もこのグループにいる時は、そういうコミュニケーションにしてみようと思うようになって、穏やかな私、褒め合う私になってみたのです。
それはそれで、心地いいということにも気づきました。
ブログで馴れ合いたいか?というと・・・
だから、「批判・ダメ出しはなし」という関係のモヤモヤは、わかる。
私も、心地いいあのグループの雰囲気を、自分のブログに持ち込みたいかというと、別にそうはしたくない。
だから、私はブログをのべ5年もやっているけれども、そのことを誰にも言っていません。
言いたいことを、誰にも気を遣わずに、言うための場。
そういう意味でのブログがあるから、私はプライベートでの心地いいぬるま湯にハマっていられるのかもしれないなぁと思いました。
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