こんにちは、ドクダミ淑子です。
街宣車、見たことがある人も多いでしょう。
最近、Twitterのパトロール時に、叩かれて吠えてギャンギャンしているインフルエンサーとかプロブロガーを見ていて、思ったのです。
「これって街宣車と一緒だよな」と。
街宣車ってこういうこと
街宣車と言えば、大きな音量で音楽を流しながらやってくるスピーカーが付きの黒いワゴン(一部白もあり)で、駅のロータリーに突然車を止め、車上部のステージから、マイクを使って色々と主張をしている人たちが思い浮かびます。
最初から最後まできちんと主張を聞いたことがないので、その内容については特に触れませんが、とりあえず私は耳に入れないようにして、そそくさと通り過ぎていきます。
「うるせー!」と思うことは多々ありますが、そんなことをつぶやいて絡まれたりしたら面倒なので、無言で目を合わさず通りすぎます。
街宣車ステージの下、アリーナ席には、取り巻き的な人達がいて、こんな掛け声を上げています。
「ヨッ!」
「その通りだー!」
「いいぞいいぞーっ!」
その掛け声に調子を良くして、ステージ上の人はさらにヒートアップして語っています。
「いいね!」しているのは親しい人だけ
ネット上の意見でも、こういうのって結構あると思うんです。
ある他人のとがった主張に対して、色々なリアクションを取る人がいます。
- 心から賛同して、「いいね!」を送っている人
- 別に賛同はしていないけれども、その人と親しいから「いいね!」している人
- 面倒臭いから、聞かないふりしてスルーする人
- ちょっと勇気を出して、「それって違くない?」と言う人
街宣車に「違くない?」と言えるのは警察だけですが、ネット上だとたまに出現します。
そうすると、普段多くのスルーと特定の人からの称賛を得ている人は、びっくりしてしまうのです。
スルーしている人は、「いいね!」ではなく関わりたくないだけ
なんで正しい私のことを全否定するのか・・・みんないつも「いいね!」って言ってくれるのに。
そうすると、人は自信喪失ゆえに「逃げ」に走ります。
「左翼だ」とか「国家への冒涜だ」とか「クソリプだ」とか「名誉毀損で訴える!」とか・・・。
でも、そもそも「みんないつもいいね!と言っている」という前提が違うんですけどね。
おかしいと思っても面倒だから関わらないでスルー、これだけなのに、声を上げられない=正しいと思っているのです。
批判・批評は、人間性の否定ではない
街宣車でガーガーやっている人は、普段取り巻きにチヤホヤされているので、自分の意見を批判されたり、ディスカッションの場に行くことに慣れていないのでしょう。
ちょっと、意見されるとそれだけで拳銃を取り出して騒ぎだします。
この文章はとても、すとんと腹落ちした。
私ははあちゅうさんに対して批判的な意見を書いてますが、それはあくまで批評的なものであり悪口ではありません。物書きであるならば、漠然とした印象による悪口ではなく、ちゃんとした文章で内容に関して反論すべきなのだと思います。
批判と悪口を一緒にしてはいけない、批判には反論すべき―――その通りだと思うのです。
文章を世に出すということは、批判も批評も受け入れる覚悟があるということ
Twitterやブログで気軽に自分の意見を発信でき、すぐに削除できる時代なので、こういう感覚はないかもしれませんが、自分の意見を公表するということは、その発言に責任を持たなければいけないということなのです。
批判されることも覚悟の上で公開できないなら、それは自分の家の日記帳にでも書いておいて、自分だけで読んで楽しめばいい話なのです。
カラオケで下手な歌を歌っていても、友達は黙っていてくれるかもしれないけれども、路上で下手な歌を歌うと文句を言われるかもしれない。
それだけ、「公表する」「公開する」ことには覚悟が必要なのです。
お山の大将にならないように気を付けたい
「責任」「覚悟」がないなら、引っ込んでいればいいのに、なぜかそういう気持ちがないまま前に出てくる人がいて、しかもそれを支える取り巻きみたいな人がいるから、おかしな話になっているのです。
取り巻きにヨイショされまくって、お山の大将になっている人たちを見て、私はそうならないように、孤高の物書きとして生きていこうと、今日も誓いながら、公開ボタンを押すのです。 (予約だけどね)
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