こんにちは、ドクダミ淑子です。
最近思うのです。
「平成30年ってか、平成の世も終わりそうなのに、ちっとも金子みすゞに追い付いてないな」と。
『私と小鳥とすずと』の内容
教科書にも出てくる有名な詩、『私と小鳥とすずと』はこんな内容です。
わたしと小鳥とすずと
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
私はこの詩は結構好きです。
鈴、小鳥、人間という、比べようのないことを比べながらも、全部を「みんないい」と認める包容力の高さ。
「みすず、ええ奴やん」ってなる心の広さがいいなって思うのです。
やっぱり、人それぞれに得意なこと、苦手なことがあって、それぞれが自分の得意なことを生かして頑張ればそれでいい、どちらが優でどちらが劣かとかない、そういうフラットな考え方が好きなのです。
多様性を認めるって、簡単に言うけど結構難しい
しかし、現実に「多様性を認めよう」といっても難しいのが現状です。
なぜなら、自分と違う人を認める=自分を否定すると思っている人が多いから。
それだけに、自分と違う人を「いい」と認めることは、難易度がとても高いのです。
最近の卒業式に袴着るの反対運動に反論したい
そんな中、「おかしい」「勝手にさせろや」と思ったニュースがありました。
「小学校の卒業式で袴はOK?」に賛否両論 勝間和代は反対「お金があるなら子どもの教育費に回すべき」 | キャリコネニュース
小学校の卒業式に袴が人気。
しかし、袴レンタルはお金がかかる、でもかわいい。
そこで出てきたのが、「袴を着れない子の気持ちになって考えて!」という意見で袴を着るのを禁止する風潮。
もう、こういうのおかしいと思うのです。
好きなことを好きなようにでいいと思う
なぜおかしいかと思うかというと、Aちゃんが袴を着たくて親に頼んで10万円で着せてもらったことと、Bちゃんが貧乏な家に育って卒業式の袴は無理だったことに、なんの因果関係もないことです。
貧富の差があることは事実です。
だからと言って、「卒業式に袴を着ることを望み、親もそれを認めたAちゃんが、着たくても着れない」ことは果たして正しいのか?と私は思っています。
袴を着たくて、着れる環境なら、着ればいい。
着られない環境なら、諦めなければいけない。
それが現実だし、親も都合の悪いことを隠さず、きちんと話し合った方がいいとおもうのです。
だってそれは、いつかハッキリと見えることだから。
なぜこんな話が通らず、「みんな一緒」が優先されるのかが、わからないのです。
人間は平等ではない、しかしゼロサムゲームではないということを伝えたい
残念ながら、日本社会で生きる人間は、全くの平等ではありません。
しかし、限られた富を取り合うようなゼロサムゲームだけでなありません。
その最たる例が、不妊治療。
デキ婚や、望まれない妊娠をした人に対して、不妊治療中の人が「何でこの人に授かって、私にはできないの・・・?」なんて嘆いたりしますが、不妊の方に子供ができないのと、すぐに子供ができてしまう人とには、相関関係はありません。
だから、「不妊の人の気持ちになって!」ということも、気持ち的なことを考えなければ、全く意味のないことなのです。
日本人はもっとノロケるべきだと思う
私たちは、遠慮しすぎだと思うのです。
彼氏がいない子もいるんだから、ノロケてはいけない。
不妊に悩んでいる人がいるかもしれないから、妊娠や子育ての話をしてはいけない。
既婚者は、結婚生活が幸せではないかのように、自虐ネタ・鬼嫁ネタを言わなければいけない。
そうではなく、どんな立場の人も、幸せ・不幸せの話を普通にすれば、もっと楽な世界になるのになと思うのです。
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