こんにちは、ドクダミ淑子です。
先日、仕事の中で、児童養護施設に行って、そこで働く人の話を聞く機会があり、行ってきました。
初めて行く、児童養護施設
私は児童養護施設というのはどういうところなのか、ざっくりと学んでは行ったものの、できるだけリアルな声を聞こうと、根掘り葉掘り話を聞いていきました。
- 子供たちの年齢は?
- どんな境遇でここに入所することになったのか?
- 学校はどこに行っているのか?
- 習い事はできるのか?
- 洋服はどうしているのか?
- 夏休みは何をしているのか?
- 1日の流れは?
- 辛い時はどんな時か?嬉しいときはどんな時か?
- 辞めたい・辛いと思ったことは?
- 何がモチベーションになって続けていくことができているのか?
スタッフさんは、守秘義務を気にしつつですが、丁寧に答えてくれました。
児童養護施設のスタッフさんから出てきた、印象深い言葉
その中で、私はある人に、ふとこんなことを聞いてしまいました。
「子供たちのことを理解できた・分かり合えた、という瞬間はありますか?」
それに対するスタッフさんの答えは、こういう話でした。
「初めから、分かり合えるとか理解できるとか、そういう風に思っていません。
彼らの受けてきた虐待・ネグレクトなどは自分は体験したことがないから。
だけど、彼らの気持ちが理解できなくても、寄り添うことはできる。」
そこで、私は自分の発言が軽かったなと後悔するとともに、この人の心の大きさに感動したのでした。
完全に分かり合えるということはない、と思った方が良いスタートラインに立てる
確かに、考えてもみれば、この施設に入ってきた子と同じような壮絶な体験をしてきたわけではない、一人のスタッフが、その子の過去や抱えている闇をそのまま理解できるかといったら、不可能でしょう。
だけれども、わからないからと言って、放り投げるのではなく、寄り添い続ける―それがスタッフにできる最善のことだと、腹落ちしていたのでした。
逆に、この子の全てを理解してあげたい、この子と分かち合いたいと思ってしまうスタッフの方が、決して埋められない溝や、「アンタに僕の何がわかるんだ!」という叫びに押しつぶされて、精神を病んでしまうのだろうとも思いました。
男女の関係も友人関係もそうだと思う
そんな話を聞いて、私たちが普段経験している「他人との認識のギャップ」っていうのも、「人間なんだから理解し合える」と思っていることから来ているのではないかと思いました。
いつまで経っても平行線の人もいるし、付き合っていてすごく気が合っていても、たった1点だけがどうしても相容れないなんてケースもあるでしょう。
でも、それは、ある程度は「そういうもんだ」「私にはわからない」「わからなくて当然だ、だって育った環境が違うんだもの」と、割り切ってしまうのも場合によっては大事なのだろうと思いました。
他人同士なんだから、完全にわかりあえることは、ない。
そこから良い関係ができるなんてことも、あるのではないかと思った、インタビュー経験なのでした。
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